330番 1986年8月8日 ルッビオ(ヴィチェンツァ)

ロザリオを唱えてのち、声で与えられたメッセージ

「ご聖体の母」


愛する子らよ、わたしの心は、あなたたちが、ここにいるのを見て、ど んなによろこんでいることでしょう。あなたたちが、ここに来たのは、ご 聖体の中におられるわたしの子であり、わたしの神であるイエズスに、礼 拝と愛、つぐないと感謝をささげるための司祭的な巡礼としてです。イエ ズスが、世界中のすべての聖ひつのうちに、実際、愛となって現存してお られるのに、わたしの多くの子ら、とくに多くのわたしの愛する子である 司祭たちから無視され、感謝もうけず無関心なとりあつかいをうけておられるのを慰めるためです。 イエズスのみ心に、あなたたちが与える喜びのために、わたしは感謝し ます。イエズスは、あなたたちに対して、この上もない喜びを感じ、あな たたちをいつくしんでほほえんでおられます。こうして、あなたたちが、 天のあなたたちの母の汚れなき心の深い悲しみに喜びを与えてくださるの を感謝します。 わたしは、いとも聖なる秘跡であるご聖体の母です。わたしが母となっ たのは、神の招きに“はい”と答えたそのときです。なぜなら、おん父の みことばに、わたしの胎内にやどる可能性を与えたからです。そうです、 わたしは、神のまことの母でもあります。なぜなら、イエズスは、まこと の神だからです。それにしても、わたしの協力が具体化したのは、みこと ばに人性を与えたことによるものです。みことばは、聖三位一体の第2 の ペルソナで、御父と同じく永遠であられる御子であり、彼はわたしによっ て、時間の中で、人間、すなわち、あなたたちの真の兄弟となるようには からわれたのです。 イエズスは人性をまとうことによってあがないのみ業をなしとげること がおできになったのです。わたしは、ご託身の母であるように、また、あ がないの母でもあります。このあがないは、ご託身の瞬間から、十字架 上のご死去のときまでに完成されました。人性をまとわれたがゆえに、神 としてはなし得なかったことを行うことができたのです。すなわち、苦し み、痛みを感じ、死を味わうことができ、これによって、おん父に完全な つぐないを捧げ、おん父の正義にふさわしい正しいあがないが捧げられた のです。 まことにイエズスは、あなたたちみんなのために苦しんで、あなたたち を罪から洗い清め、神的ないのちを受ける道を開いてくださいました。こ の神的ないのちは、人祖がはじめて罪を犯したその時に、人類すべてに とって失われていたものです。 わたしのおとめの胎内におくだりになってから、十字架にあげられたそ の時まで、愛し、働き、祈り、苦しんで、いけにえとなられるイエズスを ごらんなさい。これこそ、イエズスの絶えざる司祭的な働きです。これを みるなら、あなたたちは、わたしが、特に、司祭イエズスの母であることがわかるでしょう。 それで、わたしは、ご聖体のまことの母でもあります。 それは、わたしが、祭壇の上でイエズスの不思議な現存を生むという 意味ではありません。この役割は、わたしの愛する子よ、ただあなたたち だけに、ゆだねられているのではありませんか!それにしても、この役割 によってあなたたちは、母であるわたしの役割にひじょうに似たものとな るのです。なぜなら、あなたたちも、ミサのあいだに、聖変化のことばに よって、わたしの子を実際に生み出すからです。わたしの場合、イエズス は、貧しく、粗末なひとつのほら穴の冷いまぐさ桶の中におかれました。 いま、あなたたちの場合には、1 つの祭壇の冷い石の上におかれるのです。 それにしても、あなたたちも、わたしと同じように、わたしの子を生みだ すのです。そのために、あなたたちは、おん子イエズスの母、まことの母 であるわたしの特別な子であり、さらに個人的に特に愛されている子であ るのです。 しかし、わたしは、ご聖体のまことの母でもあります。なぜなら、イ エズスは、聖変化のときに、司祭としてのあなたたちの働きによって、ほ んとうに現存されるからです。パンとぶどう酒をキリストのおん体とおん 血に変化させる聖霊の力に、あなたたちが、人間的に承諾することによっ て、イエズスは、あなたたちの間に、この新しい具体的な現存を可能なも のとされます。 その現存は、ご託身と、あがないのみ業をつづけ、カルヴァリオ山上の 神秘を完成するためです。このいけにえをおん父に捧げられるようになっ たのは、わたしによって与えられた体のうちに受けた人性によるのです。 こうして、イエズスは、ご聖体の中に神性と栄光あるおん体をもって現存 されるのです。あなたたちの天の母からうけた体、“おとめマリアから生ま れたまことの体”をもってです。 子らよ、イエズスのおん体は、栄光にみちたおん体です。それにして も、地上におられたときの体と異ってはいません。すなわち、かれは、 違ったものとして生まれかわったのではないのです。事実ご聖体のおん体 は、わたしが与えた体です。ベトレヘムに生まれ、カルヴァリオ山上に亡 くなられ、墓の中におさめられて、そこから、よみがえった体です。それにしても、その体は、神的な姿、栄光の姿を受けておられます。天国で、 イエズスは、その栄光あるおん体をもって、マリアの子でありつづけるの です。それで、あなたたちがミサの聖変化のときに生み出す神性のうちに こもれるイエズスもいつまでもマリアの子であるのです。 だからこそ、わたしは、ご聖体の母なのです。 それに、わたしは、母として、いつもわたしの子のそばにいます。地上 でもそうでしたが、天国においても、体とともに天にあげられた特権のゆ えに、イエズスといっしょにいます。それで、イエズスが現存しておられ る地上のすべての聖ひつの中にもわたしがいます。 イエズスは、その栄光のおん体をもって、時間にも空間にも制限され ず、そくばくされないで、ここに、この山の小さな聖堂の聖ひつの中にお られるだけでなく、同時に、世界各地のすべての聖ひつの中に現存してお られるのです。これと同様に、あなたたちの天の母も、その栄光ある体を もって、ここにも、またどこにでも現存できるので、イエズスが安置され るすべての聖ひつの中にイエズスのそばに実際に現存しています。 わたしの汚れなき心は、イエズスにとって、愛と礼拝、感謝とつぐない の絶え間なき生命に鼓動する母なる聖ひつとなっています。 わたしは、ご聖体の喜びにみちた母です。 愛する子らよ、ご存知のように、おん子のおられる所には、おん父と聖 霊がいつもいっしょにおいでになります。天国の栄光のなかでイエズスは 聖霊との親密な一致のうちにおん父の右に坐っておられます。これと同様 にあなたたちに呼ばれてイエズスは、ご聖体のうちに現存し、母としての わたしの心に包まれ、聖ひつの中に安置されるそのとき、おん子のそばに は、いつもおん父のまことの現存と聖霊のまことの現存、すなわち神であ る聖三位一体が常においでになります。 それに、天国と同じように地上のすべての聖ひつの中にも、この上もな い喜びにみちたあなたたちの天の母の現存もあります。このほかに、すべ ての聖ひつのそばに、すべての天使がいます。天使たちは、ひかり輝く9 つの軍団に配置され、聖三位の全能のおん力をたたえています。そして、 その偉大な神の権能を、それぞれ異る階梯から、それぞれに違った調と栄光をもって歌っています。天使たちの軍団のまわりには、また、すべての 聖人と福者がいます。かれらは、聖三位から放たれる光と愛、たえざる喜 びと無限の栄光によって永遠にいやます偉大な幸福をうけています。 天国のこの頂点に、煉獄のすべての霊魂の深いあこがれ、浄めの苦し み、そしてたえまない祈りものぼっていきます。人間的な弱さゆえに犯し た罪のためにかれらは、浄められるにつれて、その希望と愛はますます強 くなっていき、愛である神によって完全にされたとき、かれらも聖三位を たたえる天の合唱にあずかるようになります。聖三位一体は、天国はもち ろん、世界のはてまでイエズスが現存しておられるすべての聖ひつの中に おられます。 それで、わたしは、イエズスのそばにいて、ご聖体の喜びにみちた母な のです。 でもわたしは、ご聖体の悲しみにみちた母でもあります。 天の栄光にみちた教会と、煉獄で浄められつつある教会は、愛の中心で あるご聖体のイエズスを、こうしてとりかこんでいます。地上で戦う教会 もわたしの愛する子らであるあなたたちもみな、修道者も信徒も、天国と 煉獄と心を合わせて、礼拝と賛美のたえ間のない歌をうたうために一致し ていなければならないのに、不幸なことに、こん日では、聖ひつのイエズ スは、孤独であり、みすてられて、忘恩によってとりかこまれています。 わたしは、ファティマで、今日のこの事情をすでに予言しました。牧童 に現れた天使にたのんで次の祈りを教えさせたのです。 「聖三位、父と子と聖霊よ、わたしは、あなたを深く礼拝し、世界のす べての聖ひつの中においでになるわたしの主、イエズス・キリストの、い とも尊いおん体とおん血、ご霊魂と神性とが受けておられる侮辱と汚聖の 無関心をつぐなうために、おささげします。……」 この祈りは、あなたたちのこの今の時代のために教えられたのです。 イエズスは、こん日、孤独です。この孤独は特に、あなたたち司祭がも たらすものです。というのは、しばしばイエズスとは無関係なことばかり し、役にたたない活躍のための活躍をし、第二義的で重要でないことにだ けあこがれ、司祭としての、あなたたちの1 日の中心であるべきものを忘 れてしまうのです。あなたたちの中心は、ここです、すなわちイエズスが現存し、特別にあなたたちのために安置されている聖ひつの前です。 イエズスは、わたしのたくさんの子らの無関心のうちにいます。この子 らの生活は、まるでイエズスが、存在していないかのような生活です。典 礼儀式を行うためにお聖堂に入るときでさえ、神であるイエズスが、聖ひ つの中に実際においでになることを心にとめません。教会の中心となるは ずのご聖体が、教会の隅におしやられています。ほんとうは、イエズスこ そ、あなたたちの教会の集いで中心でなければなりません。なぜなら、教 会こそイエズスの神殿であり、これは、第1 にイエズスのために、そして その次に、あなたたちのために作られたものです。 聖ひつの中におられるイエズスが多くの聖堂では、教会の集まりのため に使うただの道具ででもあるかのように、隅に置かれているのをみて、母 としてのわたしの心は、深い悲しみをおぼえます。 それにしても、こん日、汚れなきわたしの心に血を流させるいばらの冠 となっているのは、特に汚聖の罪です。現代では、聖体拝領が盛んに行わ れているにしても、同時にどれほど多くのこの汚聖の罪が犯されているこ とでしょう! ミサ聖祭の行われる度ごとに、汚聖の聖体拝領をする人が いないとはいえないほどになっています。教会全体を汚して教会を麻痺さ せ、その働きをとめ、教会を不潔なものとし、重く病むものとするこの悪 がどんなに広がっているかを、あなたたちが、わたしの眼で見るとしたら どうでしょう! きっとあなたたちも、わたしと共に溢れる涙をとめること ができないでしょう。 わたしから愛され、わたしの心に奉献された子どもであるあなたたち は、戦う全教会にとって、ご聖体におけるイエズスに立ちかえるための、 強いよびかけとなってください。それは、実りのない教会を浄めて、沙漠 も同様の今のこの状態を改める生きる水の泉が、ここ、つまり、聖ひつの 中だけにあるからです。恵みと光の第2 の聖霊降臨の道を開いてくれる生 命の秘訣は聖ひつにだけあります。教会の聖徳をもとどおりに洗い浄める 泉はここ、ご聖体のイエズスにだけあるのです。 教会全体を完全な刷新に導くのは、あなたたちの司牧的な計画や議論に あるのではありません。すなわち、あなたたちが、これほど信頼して、たよりにしている人間的な手段ではありません。ご聖体のイエズスにだけ可 能です。イエズスだけが、教会を貧しく、福音的で清いもの、そして、今 たよりにしているすべてのものを脱ぎすてた聖なるもの、美しく、天のあ なたたちの母のように、汚れも、しみもないものとしてくださるでしょう。 わたしは、このメッセージが公にされて、わたしの本の中にあるメッ セージと共にかぞえられ、教えられることを望んでいます。とくに全世界 に拡がることを望んでいます。それは、今日わたしは、世界各地から、あ なたたちを呼び集め、聖体のまことの母、— それは、喜びにみちた母 であると共に、ひじょうに悲しむ母であるわたしの汚れなき心にとって、 愛と礼拝、感謝とつぐないの冠になるようにと招いているのです。 父と子と聖霊のみ名によって、わたしは、あなたたちを祝福します。